昭和42年12月16日 報徳祭でのご挨拶 記入者:いつのり
テープが途中から始まります。
ね、ですから少し緩んどるようならば、気がつきゃあっとこうやって上に上げられるからいいんですけども、また初めから、一つに履き直さにゃいかんという人たちが、もし、イライラもなーんもないなら、それこそお祭りの始まる( ? )やってくるなら、一つストッキング履いとらんとです。ね、これはもっとひどいです。ね、自分のご大祭と思うたら、こんなこともできるはずがない。
ね、とこの辺のところを、銘々信者が、自覚さしてもらわなきゃでけないと思うんですね。というて、うんなら、イライラしてもならにというのでございます。
ね、けども、心の中にあら、これはどうしょうか、というところもあるけれども、そういうときには日頃の信心に、はっ、これは信心が豊かさを変えておるぞと、そこに気づかせて頂いて、一つ(?緩む)上に引き上げていくような、気持ちは必要ではあるということなんです。大先生のもとでは、ちゃーんとその、落ち着いちゃってから、しておるというのなら、これはまたおかしい。
ね、この辺が私は難しいところである、いわゆるデリケートなところと思うんですよね。自分の信心が、ホントに、日頃打ち込んどらん証拠に、こういうときにホントに、ストッキングも履いてきていない自分というものを、恥ずかしゅう思うて入らなきゃいけません。お詫びしよかにゃいけません。ね。
同時に、ストッキングを履いておっても、緩んでおるとするならば、またおかしいのでございますから、ね、そこんところを、私どもは気づかして頂くたんびに、引き上げていき、引き締めていき、心の上に、有り難い豊かさ、有り難さを持って、そのことに望まして頂けれるだけの信心を頂きたいものだと、こう思います。
今日は、ここにとっては、初めての報徳祭でございます。何と申しますか、私はその、初めての報徳祭、あーずいぶん、報徳祭、あちらこちらの報徳祭を拝ましてもらいましたけれども、なにか特別に、合楽の、おー、今日の報徳祭には、神様だけではない、御霊様方の特別な働きを、私は感じます。ひしひしと感じます。
ね、ですから、そういう、うー神、神様の働きと、霊神様方のお働きと、私共の、いわゆる、若い心、真心を持っての、これが一つの出会いになる。ご祭典が、その、言わば頂点である。クライマックスである。そこに喜びの渦が、まきかうよ、かようようなおかげを頂いて、今日の報徳祭を境に、また一段と私の信心を、コントロールしていなければならない、というようなふうに感じるのでございます。
ね、昨夜も申しましたように、ご大祭が終わったら、後はやれやれというようなことでないような信心、言わゆる水を、水が引いてしまうのではなくて、水をこちらへ引かせてもらう。こちらへ、お恵みの水をこちらへ引く。その、私は信心が必要であると思いますね。
どうぞ